■夏目漱石の文章:「は」をどう使っているか


▼夏目漱石「こころ」の文章

夏目漱石の文章は、100年前の文章なのに、今でも読みやすくて明快な文章です。夏目漱石と正岡子規の文章は、今でも古びていません。司馬遼太郎がよく指摘することです。正岡子規について指摘したのは、谷沢永一が先だったかもしれません。

お二人は仲が良かったですし、言葉についての感覚が鋭い方々ですから、すぐにその意味が伝わったのだろうと思います。他の人の文章が古くなるなか、今でも古びない文章があったなら、そこには何かがあります。

「こころ」が朝日新聞に連載されてから100年たつということで、再び連載されています。漱石の文章に感心する人が、たくさんいますね。以下は、その一節です。

私は田舎(いなか)の客が嫌(きらい)だった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的として遣(や)って来る彼らは、何か事があれば好(い)いといった風(ふう)の人ばかり揃(そろ)っていた。私は子供の時から彼らの席に侍(じ)するのを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛は一層甚(はなはだ)しいように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙(やひ)な人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。

これを読むと、誰が文の主役なのか、すぐにわかります。
「私は」…「嫌いだった」
「彼らは」…「人ばかり揃っていた」
「私は」…「感じていた」
「私の苦痛は」…「甚だしいように想像された」
「私は」…「いいかねた」
「私は」…「主張した」

漱石の「こころ」の文章は、誰が主役なのか、すぐにわかります。「は」がつくところに、主役がいます。述べられたことがらの主役(主体)が誰であるのかがわかることが、文章をわかりやすくしています。

 

▼意識的に主役を示した漱石

主役に「は」がつくことなど、当たり前のように思われがちです。しかし、ちょっと見てみると、当たり前でないことがわかります。200字を少し超えるほどの漱石の文章のなかに、「私は」が4回もあります。それがうるさく感じられないのは、漱石のすごさです。

「私は」ではじまる文が続くと、うるさくなります。漱石は、「私は」と書いたら、次の文で、先頭に「私は」が来ないようにしています。そのあとも「しかし私は」「それで私は」と変化をつけています。こうした工夫は、引用した箇所だけではありません。

漱石の文章は、誰がどうしたのか、何がどんなふうなのか、がよくわかります。意識して書き込まなかったら、こうはなりません。主役(主体)が明確な文章だから、古びないのです。主役が誰であるかを、うるさくならないように工夫して、示しています。

日本語の文章を考えるときに、標準としたい文章の形式は、漱石の文章の系譜であるべきです。長く古びない文章が、標準的な文章です。

それを、司馬遼太郎は「主語と述語がちゃんとあり、目的語もきちっとあるような、そういう言葉」という言い方をしていました。また西原春夫は、「主語・述語のはっきりしている外国語風の文章」という言い方をしていました。

日本語は、文の要素を述語(述部)で束ねる構造を持っています。その前に、5wをしめす要素を、順不同に貼りつけていくことができます。述語(述部)の前は、ヘタするとメチャクチャになりかねません。意識して主語(主役)を目立たせないと、主語がはっきりしないのが日本語の特徴です。

漱石の文章は、何気なく書かれているように見えますが、明らかに意識的に工夫して主語を明示しています。主役が何であるか、誤解されることがないように、同時にうるさくならないように、工夫しながら示しています。さりげなくこういうことをやれたらよいのですが、簡単にはいきません。

 

▼漱石のレベルは高すぎた

司馬遼太郎は、「私のモンゴル語」という講演で、日本語の文章について一筆書きのように語っています。

明治維新は日本人にいろいろなものを捨てさせる革命でしたが、日本人がそれまで持っていた文章まで捨てさせました。文章とは社会が共有するものであり、同時に個人が持つものですから、これは大変でした。
明治の人はみな手作りで、苦心惨憺して文章を書き、ようやく漱石によって完成したものの、漱石のレベルは高すぎた。
その後も手作りは続いています。日本語の場合、だれが書いてもいい文章になるというところには、なかなかいかないものですね。
「私は文章を書くのがへたでして」
といって怠けている人は、その手作りが面倒くさいという人であります。

いまから100年前、日本語の文章を手作りするのは大変だったでしょう。どうして漱石に、それができたのかわかりません。ただ、漱石が文法を意識していた可能性はあります。明治38年(1905年)の『吾輩は猫である』に、こんな問答があります。

主人は細君に向かって「今鳴いた、にやあと云ふ声は感投詞か、副詞か何だか知つてるか」と聞いた。(中略)
「どつちですか、そんな馬鹿気た事はどうでもいゝぢやありませんか」

国語学者の岩淵悦太郎は『日本語を考える』で、≪「吾輩は猫である」の書かれた当時は、文法などというものは一般の人にはほとんど意識されていなかったに違いない≫と書いています。漱石は、文構造を考えながら、文章を作ったように思います。

とても無意識にできた文章ではありません。とくに『三四郎』以降の文章は見事です。

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